こんにちは、「まっちー」です。
本名:町田 伸之介と言います。
2019年1月から、少年野球チーム「ひがし・S・ライナーズ」でコーチをさせてもらっていて、コーチ歴は4年目です。
↑の画像は、少年野球の試合でイニング間の投球練習を、キャッチャーの子が防具を着け終わるまで代わりにやっている時のものです。
略歴
・1988年生まれ
・新潟県上越市出身(出生は長野県)
【小学生】野球を始めたのは6歳から
1995年8月、いまコーチをさせてもらってるライナーズの前身「新町ライナーズ」に入団。
当時はまだ、「巨人戦のナイター中継」が当たり前で、私もテレビで巨人戦を観まくりました。
そのせいか、入団前の時点(小学1年生)で、試合に出場できるレベルのルールはたいてい覚えていました。
そういった過去があるので、
野球歴2年以上の高学年でも「タッチアップ」とか「フォースプレー」が分からない現代の小学生に、やや不満を感じてしまいます。笑
入団当初のライナーズは、文句ナシの弱小でした。
入団して初めて参加した試合を観て思いましたもん。「あっ、弱い」って。笑
人数が少なく、私は小学1年生にも関わらずルールをある程度知っていたので、早い段階(=小1の秋)で大会にも出してもらえました。
小3の秋にはショートのレギュラーに選ばれ、かなり期待されていたと思います。
しかし、なぜかバッティングが嫌いで、そこから小学生なのに成長曲線は下降線を描いてしまいます。
なぜそうなったかというと
・家で素振りをしない→父親からネチネチ叱られる→ますます素振りしたくなくなる
・打撃練習で監督コーチから、ダメ出しされる→バッティングが嫌いになる
・大人たちのダメ出しの内容が不統一(独自論)なので、頭が混乱する→フォームがおかしくなり、ますますやる気がなくなる
・鼻は利くので、周囲の「こいつ(まっちー)物足りないわ~」を感じて、なんだか委縮してしまう
・そしてまた、色んな人にネチネチ…(以下、繰り返し)
要は、自分の努力不足であり、そこから前向きになるきっかけが得られないままズルズルといってしまいました。
一時は本当に野球が嫌いになりました。
この時期は野球ではなく、学校の昼休みにサッカーやってるのが楽しくて仕方なくて、学校の先生に「サッカー部作ってください」って頼んだくらいです。
「外野にいけ」で上向いた
メンタルがやられたので、「こいつ(まっちー)は天才だ!」と称されたショートの守備まで下降してしまいます。
メンタルの影響が足にきてしまい、足が動かなくなってしまったんです。
足が使えないショートなんて、存在価値無いですよね?
結局、小4の夏にレギュラーを外され「外野にいけ」と命じられます。
しかし、ここから上向きます。
外野って、否が応でも足(走り)を使わないといけないポジションなので、思いっきり走り回ってフライを捕り、力いっぱい投げているうちに気分が良くなりました。
そのままライトのレギュラーになり、4年秋の新人戦で優勝します。
「小学生のとき、色んなポジションをやるのって大事だな」と体感したできごとでした。
小学生最後はサード、これが一番ハマった!
その後も、ピッチャー・キャッチャー以外のすべてのポジションで大会に出してもらいました。
迎えた最終学年、再びショートで起用されたのですが、トラウマだったのか、また不調になります。
5月の大会の決勝の試合中、急遽「しんのすけ、サードにいけ!」という指示。
そこから、サードで固定され、チームも個人も状態が上がり、6月の大会で優勝し、上越地区の代表戦で準優勝するなど「チーム史上最高の1年間」と言われた1年を送りました。
今思えば、これがプレーヤーとして最高の瞬間でした。
中学~高校
ちなみに、勉強はそこそこできたと思います。
・中学の定期テストは、いつも5教科で420~450点(500点満点)
・高校は、偏差値55~58といわれているところに進学
しかし、高校に進学したあたりから、最も苦しい時間を過ごすことになります。
進学校と言われ、野球もそこそこ強いと評判の高校に進んだのですが、ここで精神的に立ち止まってしまったのです。
「なんで勉強しないといけないんだ?」
「なんで大学に行かないといけないんだ?」
「野球、なんのためにやってんだ?」
この悩みを誰にも相談できず、解決もできないまま、高校の3年間は過ぎてしまいました。
精神状態はひどいもので、高校3年間は無欠席で通ったものの、無気力でしたから空っぽです。
加えて、投げ方が悪くて肘を痛めてしまい、選手としても終わってしまいました。
もう、本当に心が荒み、落ちまくってました、というか終わってました。笑
それでも、3年生のとき、何がきっかけか忘れましたが「仲間のために頑張ろう」と思えたことで、部活も勉強も少しだけ頑張れましたが、時すでに遅し。
大学も(というか志望先すら)決まらないまま卒業、自分の意志で上京を決意します。
「ネズミ講派遣会社」に入ってしまう
なんとなく上京したものの、やっぱり「何がしたいのか分からない」状態のまま浪人(フリーター)生活を2年間送っていました。
2年目の浪人中、知らないアドレスから1通のメール(当時はガラケー)が。
「まっちー、久しぶり!東京にいるんだろ?飲みいこーぜ!」
メールの送り主は、小中学校の同級生。
当時全く接点が無かったので、なぜ、どこで私の連絡先を入手したのかは不明です。
しかし、細かいことは気にせず飲みの誘いにのることに。
私を誘った同級生は、ある派遣会社に入ることを私に提案しました。
提案内容は
・大学なんか行ったって意味ない
・その派遣会社はイベント、芸能など多くのグループ企業を抱えている
・実はどのグループ企業も、人手が足りない
・だから力の発揮場所をみつけられず、くすぶってるお前みたいなヤツの力が欲しい
・その派遣会社に仲間を集め、彼らが働いたら、その中間マージンがお前のものになる
こういった誘い文句にまんまと乗っかり派遣会社に入りました。
後で知ったのは、その派遣会社は「ネズミ講派遣会社」と言われ、東京の学生の間では有名だったというものです。
浪人期間、ほとんど誰とも接してなかった私は、知らずに入ったものの、色んな人に説得され1年で退職しました。*それでも1年在籍しちゃいました。笑
いや~、世間知らず(当時の私)って、本当に怖いです。
神宮球場で働くようになり、人生変わった
ようやく人生そのものが、上向き始めたのが22歳ごろから。
詳しいことは、こちらの記事で書いてますが、神宮球場でレアなバイトを5年経験させてもらった辺りです。
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神宮球場でのレアなバイトを5年間経験して人生観が変わった話
続きを見る
この頃から、徐々に勉強することへの意欲が増して、休みの日に永田町の国会図書館に出かけて勉強したりしてました。
国会図書館、知ってます?
国会議事堂とかの隣に建ってるどデカい図書館です。
勉強しているうちに
・他人の役に立つ人生にしたい
・教育に関連した何かがしたい
・だけど「学校の先生」は違う
・野球と絡ませた何かだと思う
・働くことは嫌いじゃないけど、働き方ってこれでいいのかな?
・お金の悩みは給料に頼るから、「資産」を作ればお金の悩みは解消に向かうはず
といった考え方が確立され、高校時代の「なにがしたいのか分からない」自分から完全に抜け出せました。
Uターン就職、少年野球コーチ、そして脱サラ
神宮球場でのバイトを辞めた後、青森県弘前市でICT支援員という仕事を経験。
そこで、いよいよ教育について真剣に考えるようになります。
まだ具体的ではなかったものの、「やりたいことを展開するなら、地元が良い」と思い、28歳にして、未経験だった農業分野の企業にUターン就職。
そして、30歳のときライナーズにコーチとして復帰。
農業法人の仕事が春と秋休めないことと、サラリーマンの働き方に嫌気が差し、なんの保証もないまま思い切って脱サラして、今に至ります。
当ブログの運営、Webライティング、夜はスポーツジムのバイト、を通して少ないながら収入を得つつ、少年野球にフルコミットしている状況です。
長くなりましたが、自己紹介は以上となります。
あわせて読んでいただきたい
少年野球にフルコミットする過程で、なにか情報発信して役立てれば、と思い当ブログにて情報発信させてもらってます。
私の日本の少年野球界への願望は、年齢の近い人や若い人に「アップデートできる指導者」になってもらいたい、ということです!
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【少年野球】あなたが指導者になる為に初日にやるべき4ステップ
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過去の自分に伝えたいのが、睡眠の重要性。もっと良く眠れていれば…笑
あるのと無いのでチーム運営の質が大違い。
少年野球の世界で、ブログは重要なツールとなり得ます。
少年野球は、親御さん、特にお母さんたちの力が欠かせないのが現状です。
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【解決策】少年野球(スポ少)の保護者間トラブルを回避するには?
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